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ブックメーカーのオッズ

Brazil 3.25

England 7.50

Italy 9.00

Germany 9.00

Argentina 9.00

Spain 13.00

Holland 13.00

France 13.00

Japan 201.00

せめて、100倍を切ってほしかった。
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by saculaculacula | 2006-05-28 21:05

アドリアーノ

ヤフーで紹介されていたので、その紹介にちょっとちゃちゃを入れてみよう。

史上最強カナリア軍団のエースストライカー

??? ロナウドではないのか?

今大会のブラジルは、間違いなく優勝候補大本命である。

いつもそうでしょ。

ロナウド、ロナウジーニョ、カカら世界トップレベルのタレントが攻撃陣にそろい、中盤からディフェンス陣の選手層も厚い。

確かにそうなんだよね。

6度目のワールドカップ優勝を狙う“史上最強軍団”――そんなチームのエースストライカーが、アドリアーノである。


189cm、91kgの体躯(たいく)を誇るストライカーは、強靭(きょうじん)な肉体が何よりの武器だ。

どこで見てもごっついもんな~


当たり負けすることはほとんどなく、パワーあふれるドリブルでマーカーを寄せ付けない。


ほんとだよ。日本じゃとめられないよ。宮本なんて176cmだろ・・・・・・
日常でもそんな体格差のある相手に向かっていかないよ・・・・・・

かつスピードも超一流だから、相手守備陣にとっては何ともやっかいだ。シュートレンジも広く、ゴールまで30m程あっても射程範囲。

でかいから、パワーもすごいんだろうな~


視界にシュートコースが開けると、丸太のような左足で弾丸シュートを放ってくる。


丸太ってそのままやんけ!!


“フェノメノ(怪物)”。全盛期のロナウドに付けられた愛称は、今ではアドリアーノにこそふさわしい。


ロナウドは、サッカーの怪物じゃないの?アドリアーノは、まさに怪物

2005年コンフェデレーションズカップ。ロナウドが欠場した大会で、アドリアーノは自らがセレソンのエースであることを示した。

たしかに、あのときはすごかった。


準決勝ドイツ戦の前半21分、ゴールまで約30mの距離。セレソンのエースストライカーはわずかなコースを見つけると、鋭い弾丸シュートを突き刺した。

決勝のアルゼンチン戦でも、2得点を記録。大会通算5ゴールを奪いMVPを受賞、4大会ぶり2度目の優勝をもたらした。

すばらしかった。日本戦は、でないでくれ!!たのむ!!!

つかれたから、こんなところでどうだろうか?


さああと、開幕まで・・・・・何日だったっけか?


少なくも、6月9日開幕である。
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by saculaculacula | 2006-05-28 21:00

優勝国予想

優勝国はブラジルかな?

優勝 ブラジル(2連覇!)
準優勝 イングランド
3位 オランダ
4位 ポルトガル


大会得点王
ロナウド
アドリアーノ
メッシ
C・ロナウド
ファン・ニステル・ローイ
シェフチェンコ
カカー
ジラルディーノ
期待を込めて 高原 がんばれ!!
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by saculaculacula | 2006-05-28 20:58

可笑(おか)しな

 猫の耳というものはまことに可笑(おか)しなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛(じゆうもう)が生えていて、裏はピカピカしている。硬(かた)いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪(たま)らなかった。これは残酷な空想だろうか?
 否。まったく猫の耳の持っている一種不可思議な示唆(しさ)力によるのである。私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあがって来た仔猫の耳を、話をしながら、しきりに抓(つね)っていた光景を忘れることができない。
 このような疑惑は思いの外に執念深いものである。「切符切り」でパチンとやるというような、児戯に類した空想も、思い切って行為に移さない限り、われわれのアンニュイのなかに、外観上の年齢を遙(はる)かにながく生き延びる。とっくに分別のできた大人が、今もなお熱心に――厚紙でサンドウィッチのように挾んだうえから一思いに切ってみたら? ――こんなことを考えているのである! ところが、最近、ふとしたことから、この空想の致命的な誤算が曝露(ばくろ)してしまった。
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by saculaculacula | 2006-05-28 20:55

古い言葉

性交は夫婦でなくてもできるが、子どもを育てるということは人間のように愛が進化し、また子どもが一人前になるのに世話のやける境涯では、夫婦生活でなくては不都合だ。それが夫婦生活を固定させた大きな条件なのだから、したがって、夫婦愛は子どもを中心として築かれ、まじめな課題を与えられる。恋愛の陶酔から入って、それからさめて、甘い世界から、親としてのまじめな養育、教育のつとめに移って行く。スイートホームというけれども、恋愛の甘さではなく、こうなってから初めて夫婦愛が生まれてくる。子どもを可愛がる夫婦というのはよそ目にも美しく、その家庭は安泰な感じがするものだ。
 人間は社会生活をして生きているから、夫婦の生活をささえ子どもを養、教育していくことは生活の「たたかい」を意味する。この闘いに協同戦線を張って助け合うことが夫婦愛を現実に活かす大きな機会でなくてはならぬ。たのみ合うという夫婦愛の感じは主としてここから生まれる。この問題でたよりにならない相手では、たのみにならない味方ということになる。この闘いは今日の場合では大概は容易ならぬ苦闘だからだ。しかしこれは協同する真心というので、必ずしも働く腕、才能をさすのではない。妻が必ず職業婦人になって、夫の収入に加えねばならぬというのではない。働く腕、金をとる才能のあることがかえって夫婦愛を傷つける場合は少なくないし、またあまりそういう働きのあるような婦人は、愛が濃やかでなく、すべて受身でなく可愛らしげがないという意味あいもあるのだ。
 婦人が育児と家庭以外に、金をとる労働をしなければならないというのは、社会の欠陥であって、むしろやむを得ない悲惨事である。婦人を本当に解放するということは、家庭から職業戦線へ解放することではなくて、職業戦線から解放して家庭へ帰らせることだ。
 しかし現状では夫婦共稼ぎもやむを得ない。が、この際夫としてはなるべく妻を共稼ぎさせないようにするのが夫婦愛であり男の意気地である。妻の方では共稼ぎもあえて辞しないという心組みでいてほしいものだ。
 私の知ってるある文筆夫人に、女学校へも行かなかった人だが、事情あって娘のとき郷里を脱け出て上京し、職業婦人になって、ある新聞記者と結婚し、子どもを育て、夫を助けて、かなり高い社会的地位まで上らせ、自分も独学して、有名な文筆夫人になっている人がある。夫も薄給で子どもをおんぶして、貸家を捜しまわった時代のことが書いてある。その人の歌に、

事にふれてめをと心ぞたのもしきあだなる思ひはみなほろぶもの

というのがある。この「めおと心」というのが夫婦愛で、これは長い年月を経済生活、社会生活の線にそうて、助け合ってきた歴史から生まれたものである。
 そして不思議なことには、この人は子どもも可愛がるが、生活欲望も非常に強い。妻らしく、母らしい婦人が必ずしも生活欲望が弱いとしたものでもないようだ。
 子どももなく、生活にも困らない夫婦は、何か協同の仕事を持つことで、真面目な課題をつくるのが、愛を堅め、深くする方法ではあるまいか。
 すなわち学校、孤児院の経営、雑誌の発行、あるいは社会運動、国民運動への献身、文学的精進、宗教的奉仕等をともにするのである。

二つ夫婦そらうてひのきしんこれがだいいちものだねや

 これは天理教祖みき子の数え歌だ。

子をなさぬ二人がなかのめぐし子と守りてぞ行かな敷島の道

 これは子どものないある歌人の詠だ。
 ブース夫婦、ガンジー夫婦、リープクネヒト夫婦、孫逸仙と宋慶齢女史、乃木大将夫婦これらは、子どもの有無はともかく同じ公なる道、事業に心をあわせ、力を一つにして、夫婦愛が固くなったものだ。

やんごとなき仏にならせわがために死にしこころのそのままにして

 これは自分の妻をあることで、苦しめ抜いたある真宗信徒の歌である。
 夫婦愛というものは少しの蹉跌(さてつ)があったからといって滅びるようなものではつまらない。初めは恋愛から入って、生活と歳月の移るにしたがって、人生の苦渋にもまれ、鍛えられて、もっと大きな、自由な、地味なしんみの、愛に深まっていく。恋愛よりも、親の愛、腹心の味方の愛、刎頸(ふんけい)の友の愛に近いものになる。そして背き去ることのできない、見捨てることのできない深い絆(きずな)にくくられる。そして一つの墓石に名前をつらねる。「夫婦は二世」という古い言葉はその味わいをいったものであろう。
 アメリカの映画俳優たちのように、夫婦の離合の常ないのはなるほど自由ではあろうが、夫婦生活の真味が味わえない以上は人生において、得をしているか、失っているかわからない。色情めいた恋愛の陶酔は数経験するであろうが、深みと質とにおいて、より貴重なものを経験せずに逸するなら、賢く生きたともいえまい。深い心境を経験しないですますことは、歓楽を逃がすより、人生において、より惜しいことだからだ。そして夫婦別れごとに金のからんだ訴訟沙汰になるのは、われわれ東洋人にはどうも醜い気がする。何故ならそれだと夫婦生活の黄金時代にあったときにも、その誓いも、愛撫も、ささやきも、結局そんな背景のものだったのかと思えるからだ。
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by saculaculacula | 2006-05-28 20:55